妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

紀長谷雄が失脚?!そんなはずはないが……。

今晩は、壽々(じゅじゅ)です。


月組公演の『応天の門』を予習、という
私の記事と似たような記事のブログを見
つけて、読んでみたのですが、こちらは、
実在した人物を紹介した記事のようです。
所々、?と思う場所もありますが、まあ、
読みやすい文章で、簡潔に紹介されてい
ます。


ただ、紀長谷雄の部分だけは、さすがに
ちょっと、違うのではないかと……。


こう書かれています。
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菅原道真を師と仰いでいたため、謀反の
嫌疑をかけられて道真が左遷させられた
後は長谷雄も無念ながら失脚していきま
す。
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宝塚の舞台には関係ないので、特に、紹
介はしなかったのですが、ウィキペディ
アの紀長谷雄の最後の部分には、こう書
いてあります。
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醍醐朝に入ると左右大弁の要職を務める。
昌泰4年(901年)昌泰の変が発生し、師
とも仰ぐ右大臣・菅原道真が大宰権帥に
左遷されて失脚する。この変において長
谷雄がどのような態度を取ったかは明ら
かではないが、道真に深い同情の念を寄
せ、無念やるかたのない想いを抱きなが
らも、恐らく宇多上皇に慰留されて、目
立った行動を起こすようなことを慎んで
いたと想定される。あるいは行動が逆効
果になることを恐れていた可能性もある。
それでも、秘かに長谷雄は配所の道真を
慰め援助していたと見られ、道真もこの
誠意に感じ、配所で作った詩集『菅家後
集』を長谷雄に贈っている。長谷雄は道
真に心を寄せていたものの、醍醐天皇や
執政の左大臣・藤原時平も長谷雄の人柄
や優れた政務能力を無視できず、延喜2年
(902年)には参議に任じて公卿に加え
た。なお、参議任官を挟んで要職の左大
弁を約10年の長期に亘って務めたが、長
谷雄が秀な官人であったことの証明とす
る意見もある。延喜10年(910年)従三
位・権中納言、延喜11年(911年) 中納
言に至る。
醍醐天皇の侍読を務める一方、『延喜格
式』の編纂にもあたった。
延喜12年(912年)2月10日薨去。享年
68。最終官位は中納言従三位。
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ということで、紀長谷雄は、道真ととも
に失脚するのではなく、その後も、出世
をして、最後には中納言にまで昇進しま
ています。原作の紀長谷雄とは大違いで
すね。


この方は、どこから道真とともに失脚、
なんて情報を得たのでしょうね。誰かと
間違えている可能性もあるのでは……。