それでは、何故、天皇家は男系になったのか?⑤ー中国ルーツ説
今日は、壽々(じゅじゅ)です。
天皇家が男系であろうが女系であろうが、
皇統が途絶えようが知ったこっちゃない
のですが、国連から勧告を受けてロクに
反論もできないというのは、日本の恥を
世界に晒しているようなものだと思いま
す。
天皇家の祖先が誰かであるかについては、
先日の記事↓のとおり、諸説ある訳ですが、
いずれにせよ、日本の天皇は、誰かから
ずっと男系である訳で、それは、決して
性染色体の所為↓ではなく、「血筋」とい
う意味では、女系であってもいいはずで
す。
それでは、何故、男系になったのかにつ
いて、大東文化大学名誉教授の工藤隆氏
は、つぎのように述べています。
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「男系での皇位継承が本格的に採用され
たのはあくまでも西暦600年代以降です。
当時、隆盛を誇っていた中国大陸の唐を
手本に国家体制を整える中で、皇位継承
についても唐を模倣して男系に限定され
たと考えられます」
「縄文、弥生など非常に古い時代にも天
皇氏族が存在したかのように記述された
天皇系譜は、『古事記』(712年)や
『日本書紀』(720年)にまとめられてい
るのですが、それらは700年代初頭の権力
集団である天皇氏族が整理・編纂したもの
であり、客観性という点ではかなり疑わし
いのです。
近年の研究では、そもそも『天皇』とい
う称号が登場したのは600年代末、天武
天皇、持統天皇の時代です。『古事記』
や『日本書紀』で、初代・神武からすべ
ての『大王(族長)』に『天皇』号を与
えてしまったことによって、非常に古い
時期から天皇氏族が存在していたかのよ
うな錯覚が生じています。
王(皇帝)が男系継承でかつ男性でなけ
ればならないというのは、もともと中国
・漢民族由来の思想です。日本でも、500
年代くらいから族長位継承は男系継承優
位に傾いてはいたようですが、600年代末
から700年代初頭、唐の国家体制を模倣す
るうちに、天皇につながる古い時代の大
王(族長)の系譜も男系でまとめたほう
がいいという観念が優位になり始めたの
でしょう(男性でなければならないとい
う部分は受け入れませんでしたが)。
そして、以後の皇位継承を男系に限定す
るだけでなく、それ以前の大王の系譜に
も、おそらくはいくつかの創作や改変を
加え、初代・神武から続く男系の天皇の
系譜として『古事記』や『日本書紀』に
まとめたのではないかと考えられます。」
(略)
701年には日本初の成文法である「大宝
律令」が制定されて、その中の「継嗣令
(けいしりょう)」には、皇族の世継ぎ
や婚姻についても規定されていた。
「《およそ天皇の兄弟と皇子を、皆親王
とせよ》としたうえで、《女帝の子もま
た同じ》という注がつけてあるのですが、
女帝の子の父についての条件は書かれて
いません。この条文の解釈には諸説があ
りますが、私は、女帝の夫が男系の皇族
ではない人だったとしても、つまり“女系”
の子でも、皇位継承権のある親王になれ
るという共通認識が当時の権力者にあっ
た可能性があると考えています。
その後、『古事記』や『日本書紀』がま
とめられた奈良時代(710年~)には、
皇位継承は男系重視に強く傾いていった
のですが、それが明文化されることはあ
りませんでした。女性天皇はもちろんの
こととして、女系天皇も許容される余地
がかすかに残されていたのだと思われま
す」
(略)
「皇位継承の規定を『男系』ばかりか
『男子』とまで明文化したのは、明治時
代(1868年~)の大日本帝国憲法下で制
定された旧皇室典範が初めてなのです」
(略)
「男系継承の強化は唐の皇帝制度の、日
本古代国家整備の必要性に後押しされた
模倣だったのであり、それに男子継承ま
で加えたのは西欧列強との対抗を意識し
た明治政府の選択だったのです。」
(以下、略)
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確かに、中国の皇帝は、則天武后を除い
てすべて男性です。
ただ、一つの疑問があります。
では、何で、中国は男系だったのか?