壽々の雑記帳

観劇のコメントや日々の出来事・時事問題などについて綴ります。

何故、天皇家は男系男子になったのか?⑥ー藤原氏陰謀説

今日は、壽々(じゅじゅ)です。


天皇家が男系男子になった理由について、
宗教学者で作家の嶋田裕巳氏は、こう解
説しています。
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(前略)
最終的に女帝の時代に終止符をもたらし
たのは、藤原氏による摂関政治の確立で
ある。


藤原氏は、娘を入内させ、その娘が天皇
とのあいだにもうけた親王を天皇に即位
させることで、外戚として絶大な権力を
ふるうようになった。そうした体制のも
とでは、女帝が即位することは都合が悪
い。藤原氏が外戚となれなくなってしま
うからである。


摂関政治の確立は、平安時代の中期だが、
藤原氏はすでに奈良時代から、そうした
体制の確立をめざしていた。聖武天皇に
嫁いだ光明皇后は藤原不比等の娘である。
摂関政治が本格的にはじまるのは、藤原
良房が摂政となった貞観8(866)年から
とされる。摂政は、天皇がまだ元服して
おらず、実権をふるえない時代の補佐役
である。


こうした体制が生まれることで、天皇家
では親王を産むことがもっとも重要なこ
ととなった。
内親王にも、伊勢神宮の祭
主になるという役割を与えられたが、親
王ほどの重要性はない。


一方、摂政関白となる藤原氏では、女子
を産むことがもっとも重視された。家を
継ぐ後継者としての男子も重要だが、こ
ちらは養子という手もあった。良房の死
後、藤氏長者となったのは養子の基経だ
った。


こうして、藤原氏における女性は、その
権威を維持するために欠かせない「政治
上の道具」となった。


彼女たちは、天皇の正妃として皇后にな
ることはできても、推古天皇などとは異
なり、夫の死後、天皇に即位することは
なくなってしまった。


摂関政治は、応徳3(1086)年に院政が
はじまることで終わりを告げ、やがては
武家政権の時代に入る。だが、皇后にな
るのは、皇族か藤原氏の子女に限られる
という体制は昭和天皇まで続いていく。
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つまり、藤原氏が権力を握るために、自
分の娘を天皇の后として送り込み、その
ためには、天皇は男系男子でなくては困
るという説です。