妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

文章生って何??月組公演『応天の門』ー用語を解説。

今晩は、壽々(じゅじゅ)です。


月組公演『応天の門』の原作には、今時
使わない用語が多数出てきます。
公演プログラムには、用語解説が載るだ
ろうと思いますが(でないと、観客はさ
っぱり分からない)……。


ということで、月組公演『応天の門』で
出てきそうな、これ何?用語の解説を、
原作からいくつか紹介したいと思います。


原作の単行本には、巻末に「応天の門
基礎用語集」が載っているほか、監修の
東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏の
「道真の平安時代講」というものが、各
話の最後に載っていて、当時の制度や風
俗などのいろいろなことについて、解説
をしています。
この中から、いくつかをご紹介するとと
もに、それ以外についても私が主にウィ
キペディアなどで調べた事について、紹
介したいと思います。
なお、今までの記事と重複するものもあ
るかと思いますが、ご容赦ください。


まず、巻末の基礎用語集からです。
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検非違使(けびいし)ー京都の犯罪・風
俗の取り締まり、警備といった現在で言
う警察のような業務を担当する官吏のこ
と。業平は「左近衛権少将」(高級武官)
として検非違使を使い、都の警備を管理
している。
摂政(せっしょう)ー君主が幼少・女性
・病弱などの理由で政務を執り行うこと
ができない場合に、君主に代わり、政務
を行うこと、その役職。
参議(さんぎ)ー太政官の議員。大納言
・中納言の次にあたる官。
入内(じゅだい)ー皇后・中宮・女御と
なる女性が、正式に宮中に入ること。本
編では、入内をする=帝の后になること
を意味している。
女御(にょうご)ー身分の高い女官。中
宮の次に位置する。
侍女(じじょ)ー貴人の側に仕え身の回
りの世話をする女性。
婢女(はしため)ー召使いの女や下女の
こと。
伎女(ぎじょ)ー内教坊に所属し、女舞
を行った女性。
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「道真の平安時代講」からです。
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「平安時代の香り」
 本は読む、絵は描く、テレビは視る。
では「お香」は?え、良い匂いのものな
んだから、普通に「嗅ぐ」でしょ?いい
え、違うんです。「嗅ぐ」という言い方
は品がない、とされるので要注意ですね。
 古代・中世には今のようなお風呂があ
りません。あって蒸し風呂か、行水。も
ちろんクーラーもないから、夏の京都は
暑かっただろうし、汗もいっぱいかいた
だろう、と想像できる。その上に、女性
はあの長い髪。当時の日本人は動物性た
んぱく質をほとんど取らなかったから、
体臭は現代人ほどは強くなかったでしょ
うけど、それでも、相当に香ばしかった
に違いない。私たちの感覚では、消臭剤
を使いたいところですが、これも、ない。
というわけで、匂い消しに重宝されたの
が「お香」なのです。
 貴族たちは、古代の昔から、特に平安
時代になると盛んに「お香」の聞き方を
工夫していきます。このとき、線香のよ
うに直接点火をすることはあまりありま
せん。多くは香炉に灰と「たどん」(炭
で作る燃料)を入れ、その上に銀葉とい
う雲母の板をのせて、数ミリ角に薄く切
った香木を熱し、香りを周囲に拡散させ
るのです。あるいは衣服にたきしめる。
(以下、略)


「得業生試と文章生試」
 学問は基本的に中国の文物を学ぶ。で、
中国の文物といっても、遣隋使や遣唐使
がその都度もち帰ってくるので、体系的
ではなかった。そのため、まず学問のか
たちが流動的。当然、教育制度、試験の
やり方も流動的。
 典型は、文章道と紀伝道の統合です。
まず漢文を学ぶ文章道という学問があっ
た。でも中国史の文献がもたらされて、
歴史が学べるようになる。これが紀伝道
です。両者はとても人気があったので、
じゃあ、まとめちゃえという話になった。
(それに尽力したのが道真のおじいさん
の菅原清公)。ですから学問の名前は紀
伝道なのに、先生は文章博士なんですね。
 紀伝道は大学寮で教える学問の中心に
位置しました。先生の文章博士が2名。
学生としては文章生(別名は進士)が20
名。このうち、特に優秀な2名が文章得
業生(別名は秀才)で、出世が約束され
ていた。このほか文章生の下に擬文章生
が20名。
 得業生を選ぶための試験が得業生試、
文章生を選ぶための試験が文章生試です。
(以下略)


(上の補足になります)
「文章生(もんじょうしょう)」ってな
に?
 この時代、貴族が学ぶべき学問が定め
られていて、(略)そのトップに位置す
るのが「紀伝道(きでんどう)」なので
す。紀伝道は中国の歴史や漢文を学ぶ学
科で、教員は2名の文章博士。学生は文
章生20名、擬文章生20名(文章生の予備
生)という構成になっていました。
 多くは貴族の子弟が試験(大学寮の寮
試)を受けて、合格すると擬文章生にな
ります。このとき、成績優秀者は給料が
支給されました。また特に優秀な2名が
文章得業生になり、秀才試(方策試・対
策とも)を受験する資格を得ます。これ
は方略試(国家戦略)を作成する試験で、
優秀な答案を作成した者は、官職に任じ
られ、栄達への道が開かれたのです。


「平安時代の試験」
 大学寮の学生(がくしょう)に対して、
まず「寮試」が課せられる。これに合格
すると、擬文章生(ぎもんじょうしょう)
になります。ついで式部省が出す「省試」
が課せられ、これに合格すると文章生
(もんじょうしょう)になる。←道真、
いまココ。文章生の内、成績優秀者二名
が文章得業生(もんじょうとくごうしょ
う)になる。最後にテストのラスボスと
もいえる対策(方略試とか秀才試ともい
う)があって、この結果によって官職に
就ける、すなわち就職出来るわけです。
(以下、略)


「平安時代の従者」
 業平や道真の時代より少し後になりま
すが、貴族の従者というと、家司(けい
し)が思い浮かびます。貴族は三位に昇
進すると、「政所」という役所をもつこ
とを許されており、家司はそこに所属し
ます。たとえば光源氏であれば「源家政
所」があり、そこには「令」とか「別当」
とかの高級家司や、「知事家」とか文書
を作成する「案主」などのまあ「下っ端」
職員が配置されている。
 彼らがどんな階級に属していたかとい
うと、下級であっても貴族の一員なので
す。つまり、天皇に従属する存在であり
ながら、光君という主人にも仕えている
わけです。それから彼らの仕事ですが、
主なところでは主人の所領の管理です。
つまり荘園に関するもろもろ、税金をき
っちり取り立てることが主要な業務なの
ですが、荘園内で起きた刑事・民事の事
件に対応したり、耕地の開発に関わった
りですね。
 業平に仕える是則には、もちろん政所
の職員とかの肩書はありません。彼はき
っと在原家に仕えるお父さんの子どもで
しょう。ぼくはよく知らないのだけれど、
こういう人は貴族と呼べるのかな?たぶ
んそうなんでしょうね、本来は下級の位
階を持っているはずです。武士で言うと
ころの「譜代の郎党」というヤツで、業
平にとって一番気心の知れた部下。だか
ら、業平の身の回りの雑用、なんでもこ
なす。でも、この時代は人件費がものす
ごく安いので、そんなにお給料はもらえ
なかったに違いない。
 一番の仕事は、業平の想い人の家に恋
文を持っていくことですね、業平だけに。
恋が成就して業平が女性の屋敷を訪れた
場合、是則は辛抱強く屋敷の外で待って
いないといけませんね。冬なんかだと、
たいへんだなあ。


菅原家について」
 先ず初めに、菅原は「氏」つまり「姓
(かばね)」であって「家」ではありま
せん。ですから菅原道真は「すがわら・
の・みちざね」と読みます。
 菅原氏の前身は、土師(はじ)氏です。
土師氏は天皇の葬送を職掌としていまし
たが、天応元年(781年)に古人(ふる
ひと)が改姓して菅原姓を称しました。
「菅原」の名は大和国菅原邑に由来しま
す。
 古人は儒学を学び、桓武天皇の侍読
(学問の師匠)となりました。この清公、
および孫の是善も儒学を修め、文章博士
を務めました。また、清公は、菅家廊下
と呼ばれる私塾を創設し、多くの門人を
教え、紀伝道(文章道)を家の学問とし
ました。
 是善の子が道真で、道真の嫡子・高視
も大学頭になっています。高視の子孫ら
も国司や大学頭などを歴任しましたが、
藤原氏全盛の世の中でしたので、道真ほ
どの出世はできませんでした。
(以下、略)
==================
ということで、「道真の平安時代講」は、
観劇の役には余り立たないかな?
その他の用語については、私が調べたも
のを書きます。
==================
まずは、在原業平の左近衛権少将から。
一括検索しても出てこないので、「近衛」
「権」「少将」の三つに分割します。
なお、「左」と「右」は、「左」が上位
で、「右」が下位になります。


近衛府(このえふ、こんえふ)ー令外官
のひとつ。近衛府は左右があり、長官は
大将、次官は中少将、判官を将監、主典
を将曹という。兵仗を帯して禁中(平安
京では内裏の内郭、宣陽門・承明門・陰
明門・玄輝門の内側)を警衛した。また
朝儀に列して威容を整え、行幸の際には
前後を警備し、皇族や高官の警護も職掌
とした。
少将(しょうしょう)ー四等官の次官
(スケ)に相当するが、中将の「おお
(大)いスケ」に対し「すな(少)いス
ケ」と呼ばれた。左右に各2 ~ 4名。そ
れぞれ「左少将」・「右少将」と略す。

権官(ごんかん)ー朝廷の官職について、
正規の員数を越えて任命する官職。「権」
は「仮」という意味。平安時代に多用さ
れた。権官と正規の官のあいだで、例え
ば、大納言と権大納言を較べると、両者
ともに同格の権力を有した場合と、一方
は実権を持つが、他方は名前だけの官職
であった例などがある。

次は、藤原良房の太政大臣。

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょ
うだいじん)
ー太政官の長官。前近代日
本の律令官制と明治時代の太政官制にお
ける朝廷の最高職。


さらに、伴善男の大納言。
大納言(だいなごん)ー太政官に置かれ
た官職の一つ。太政官においては四等官
の次官(すけ)に相当する。
太政大臣左大臣→右大臣→大納言にな
ります。


その他です。
女房(にょうぼう)ー朝廷に仕える女官
で、一人住みの房を与えられている者を
いう。身分や出身により上臈(じょうろう)、
中臈、下臈に分けられて、宮中の雑事を
つかさどる。また、院、諸宮、公家、武
家などに仕える女、さらには、一般に侍
女をもいう。
女官(にょかん/にょうかん)ー官職を
持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(か
んじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。
男子禁制とされる後宮や后妃の私生活の
管理には必然的に女性の官人が必要とな
った。
下女(げじょ)ー雑事に召し使う女。
侍女は、そこそこ身分が高い女性である
のに対し、下女は身分が低い女性がなる。
公達(きんだち)ー平安時代中期以降、
藤原北家忠平流や宇多天皇以降の賜姓源
氏(宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏など)
などの近衛次将を経て公卿に昇進し得る
上流貴族の家系出身者を「公達」と呼ぶ
ようになり、これらの家は「公達」の家
格とされた。
御簾(みす)ー簾(すだれ)の一種で、
布の縁取りなどが付けられた高級なもの
を指す。大名や公家などの地位の高い者
が、謁見者に姿を隠して会話するために
天井に取り付けられていたものが多く、
表舞台に立つことを「御簾を上げる」と
いうこともある。
大学寮(だいがくりょう)ー律令制のも
とで作られた式部省(現在の人事院に相
当する)直轄下の官僚育成機関である。
官僚の候補生である学生に対する教育と
試験及び儒教における重要儀式である釋
奠を行った。
百鬼夜行(ひゃっきやぎょう、ひゃっき
やこう)
ー日本の説話などに登場する深
夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れ、および、
彼らの行進である。鬼や妖怪などが群れ
歩いているとされており、「百鬼夜行に
遭った」という表現などがとられること
もある。経文を唱えることにより難を逃
れた話や、読経しているうちに朝日が昇
ったところで鬼たちが逃げたり、いなく
なったりする話が一般的で、仏の功徳を
説く説話でもある。平安時代から室町時
代にかけ、おもに説話に登場しており、
多くの人数が音をたてながら火をともし
てくる様子、さまざまな姿かたちの鬼が
歩いている様子などが描写されており、
これに遭遇することが恐れられていた。
『口遊』(10世紀)や鎌倉時代から室町
時代にかけて編まれた類書のひとつ『拾
芥抄』には、暦のうえで百鬼夜行が出現
する「百鬼夜行日」であるとして以下の
日が挙げられており、「子子午午巳巳戌
戌未未辰辰」と各月における該当日の十
二支が示されている。
1月・2月 - 子(ね)日
3月・4月 - 午(うま)日
5月・6月 - 巳(み)日
7月・8月 - 戌(いぬ)日
9月・10月 - 未(ひつじ)日
11月・12月 - 辰(たつ)日
百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわ
れていたため、これらの日に貴族などは
夜の外出を控えたといわれている。
物の怪(もののけ)ー日本の古典や民間
信仰において、人間に憑いて苦しめたり、
病気にさせたり、死に至らせたりすると
いわれる怨霊、死霊、生霊など霊のこと。
妖怪、変化(へんげ)などを指すことも
ある。
市井(しせい)ー(昔、中国で、井戸のあ
る所に人が集まって市が成立したところ
から) 人の集まり住む所。ちまた。また、
そこに住む人。
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後は、実際に舞台を観てから、必要であ
れば、追加します。