妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

文章生って何??月組公演『応天の門』ー用語を解説。(再追加修正版)

今日は、壽々(じゅじゅ)です。


月組公演『応天の門』の再追加修正版で
す。
やっぱり、用語が分かりづらい、という
感想を見たので、前回から時間も経って
いますし、一部、修正して再掲載します。
まさかの「双六」の話が出てきたので、
追加します。(赤字部分)
また、観劇するうえで、関係のなさそう
な用語は、取り消し線で消してあります。
なお、公演プログラムには、用語解説は
載っていなかったですね。
皆さん、観てて、分かったのでしょうか?


月組公演『応天の門』の原作には、今時
使わない用語が多数出てきます。
ということで、月組公演『応天の門』で
出てきそうな、これ何?用語の解説を、
原作からいくつか紹介したいと思います。


原作の単行本には、巻末に「応天の門
基礎用語集」が載っているほか、監修の
東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏の
「道真の平安時代講」というものが、各
話の最後に載っていて、当時の制度や風
俗などのいろいろなことについて、解説
をしています。
この中から、いくつかをご紹介するとと
もに、それ以外についても私が主にウィ
キペディアなどで調べた事について、紹
介したいと思います。
なお、今までの記事と重複するものもあ
るかと思いますが、ご容赦ください。


まず、巻末の基礎用語集からです。
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検非違使(けびいし)ー京都の犯罪・風
俗の取り締まり、警備といった現在で言
う警察のような業務を担当する官吏のこ
と。業平は「左近衛権少将」(高級武官)
として検非違使を使い、都の警備を管理
している。
摂政(せっしょう)ー君主が幼少・女性
・病弱などの理由で政務を執り行うこと
ができない場合に、君主に代わり、政務
を行うこと、その役職。
参議(さんぎ)ー太政官の議員。大納言
・中納言の次にあたる官。
入内(じゅだい)ー皇后・中宮・女御と
なる女性が、正式に宮中に入ること。本
編では、入内をする=帝の后になること
を意味している。
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「道真の平安時代講」からです。
==================
「得業生試と文章生試」
 学問は基本的に中国の文物を学ぶ。で、
中国の文物といっても、遣隋使や遣唐使
がその都度もち帰ってくるので、体系的
ではなかった。そのため、まず学問のか
たちが流動的。当然、教育制度、試験の
やり方も流動的。
 典型は、文章道と紀伝道の統合です。
まず漢文を学ぶ文章道という学問があっ
た。でも中国史の文献がもたらされて、
歴史が学べるようになる。これが紀伝道
です。両者はとても人気があったので、
じゃあ、まとめちゃえという話になった。
(それに尽力したのが道真のおじいさん
の菅原清公)。ですから学問の名前は紀
伝道なのに、先生は文章博士なんですね。
 紀伝道は大学寮で教える学問の中心に
位置しました。先生の文章博士が2名。
学生としては文章生(別名は進士)が20
名。このうち、特に優秀な2名が文章得
業生(別名は秀才)で、出世が約束され
ていた。このほか文章生の下に擬文章生
が20名。
 得業生を選ぶための試験が得業生試、
文章生を選ぶための試験が文章生試です。
(以下略)


(上の補足になります)
「文章生(もんじょうしょう)」ってな
に?

 この時代、貴族が学ぶべき学問が定め
られていて、(略)そのトップに位置す
るのが「紀伝道(きでんどう)」なので
す。紀伝道は中国の歴史や漢文とを学ぶ
学科で、教員は2名の文章博士。学生は
文章生20名、擬文章生20名(文章生の予
備生)という構成になっていました。
 多くは貴族の子弟が試験(大学寮の寮
試)を受けて、合格すると擬文章生にな
ります。勉学を積んだ擬文章生がまた試
験(式部省の省試)を受けて合格すると
文章生になります。このとき、成績優秀
者は給料が支給されました。また特に優
秀な2名が文章得業生になり、秀才試
(方策試・対策とも)を受験する資格を
得ます。これは方略試(国家戦略)を作
成する試験で、優秀な答案を作成した者
は、官職に任じられ、栄達への道が開か
れたのです。


「平安時代の試験」
 大学寮の学生(がくしょう)に対して、
まず「寮試」が課せられる。これに合格
すると、擬文章生(ぎもんじょうしょう)
になります。ついで式部省が出す「省試」
が課せられ、これに合格すると文章生
(もんじょうしょう)になる。←道真、
いまココ。文章生の内、成績優秀者二名
が文章得業生(もんじょうとくごうしょ
う)になる。最後にテストのラスボスと
もいえる対策(方略試とか秀才試ともい
う)があって、この結果によって官職に
就ける、すなわち就職出来るわけです。
(以下、略)


「菅原家について」
 先ず初めに、菅原は「氏」つまり「姓
(かばね)」であって「家」ではありま
せん。ですから菅原道真は「すがわら・
の・みちざね」と読みます。
 菅原氏の前身は、土師(はじ)氏です。
土師氏は天皇の葬送を職掌としていまし
たが、天応元年(781年)に古人(ふる
ひと)が改姓して菅原姓を称しました。
「菅原」の名は大和国菅原邑に由来しま
す。
 古人は儒学を学び、桓武天皇の侍読
(学問の師匠)となりました。この清公、
および孫の是善も儒学を修め、文章博士
を務めました。また、清公は、菅家廊下
と呼ばれる私塾を創設し、多くの門人を
教え、紀伝道(文章道)を家の学問とし
ました。
 是善の子が道真で、道真の嫡子・高視
も大学頭になっています。高視の子孫ら
も国司や大学頭などを歴任しましたが、
藤原氏全盛の世の中でしたので、道真ほ
どの出世はできませんでした。
(以下、略)


「盤双六」
 すごろく、というと、サイコロの目だ
けで勝負が決まるゲーム、戦略性のない、
子どもの遊び、と思っていらっしゃいま
せんか。たしかにそうしたものも、あり
ました。「絵双六」です。紙に絵を描い
て、サイコロを振って、マス目の中にあ
る駒を進めて上がりを目指す。江戸時代
に発達し、「道中双六」や「芝居双六」
などが考案されました。
 これに対し、「盤双六」というものが
ありました。平安時代の朝廷で行われて
いたのはこちらで、現代のバックギャモ
ンの古いものです。
(中略)
 持統天皇の朝廷はすごろく賭博禁止の
命令を出していますので、上流階級にあ
っという間に広まり、賭けの対象になっ
たに違いありません。
 ごく簡単にやり方を述べると、「◎白
と黒の石を用いる/◎盤上に配置された
(置き方は決まっている)15の自分の石
を、すべて内地に移動させた方が勝ち/◎
二つのサイコロを振り、目に合わせて二
つの石を動かすか、一つの石を目の合計
数、進める」。石の進め方には様々なル
ールがあり、相手の石の行動を妨害でき
ました。絵双六と違い、高い戦略性を帯
びていました。頭脳ゲームだったのです
ね。
==================
ということで、「道真の平安時代講」は、
観劇の役には余り立たないかな?
その他の用語については、私が調べたも
のを書きます。
==================
まずは、在原業平の左近衛権少将から。


一括検索しても出てこないので、「近衛」
「権」「少将」の三つに分割します。
なお、「左」と「右」は、「左」が上位
で、「右」が下位になります。


近衛府(このえふ、こんえふ)ー令外官
のひとつ。近衛府は左右があり、長官は
大将、次官は中少将、判官を将監、主典
を将曹という。兵仗を帯して禁中(平安
京では内裏の内郭、宣陽門・承明門・陰
明門・玄輝門の内側)を警衛した。また
朝儀に列して威容を整え、行幸の際には
前後を警備し、皇族や高官の警護も職掌
とした。
少将(しょうしょう)ー四等官の次官
(スケ)に相当するが、中将の「おお
(大)いスケ」に対し「すな(少)いス
ケ」と呼ばれた。左右に各2 ~ 4名。そ
れぞれ「左少将」・「右少将」と略す。
権官(ごんかん)ー朝廷の官職について、
正規の員数を越えて任命する官職。「権」
は「仮」という意味。平安時代に多用さ
れた。権官と正規の官のあいだで、例え
ば、大納言と権大納言を較べると、両者
ともに同格の権力を有した場合と、一方
は実権を持つが、他方は名前だけの官職
であった例などがある。


次は、藤原良房の太政大臣。
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょ
うだいじん)
ー太政官の長官。前近代日
本の律令官制と明治時代の太政官制にお
ける朝廷の最高職。


さらに、伴善男の大納言。
大納言(だいなごん)ー太政官に置かれ
た官職の一つ。太政官においては四等官
の次官(すけ)に相当する。
太政大臣→左大臣→右大臣→大納言にな
ります。


その他です。
百鬼夜行(ひゃっきやぎょう、ひゃっき
やこう)ー
日本の説話などに登場する深
夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れ、および、
彼らの行進である。鬼や妖怪などが群れ
歩いているとされており、「百鬼夜行に
遭った」という表現などがとられること
もある。経文を唱えることにより難を逃
れた話や、読経しているうちに朝日が昇
ったところで鬼たちが逃げたり、いなく
なったりする話が一般的で、仏の功徳を
説く説話でもある。平安時代から室町時
代にかけ、おもに説話に登場しており、
多くの人数が音をたてながら火をともし
てくる様子、さまざまな姿かたちの鬼が
歩いている様子などが描写されており、
これに遭遇することが恐れられていた。
『口遊』(10世紀)や鎌倉時代から室町
時代にかけて編まれた類書のひとつ『拾
芥抄』には、暦のうえで百鬼夜行が出現
する「百鬼夜行日」であるとして以下の
日が挙げられており、「子子午午巳巳戌
戌未未辰辰」と各月における該当日の十
二支が示されている。
1月・2月 - 子(ね)日
3月・4月 - 午(うま)日
5月・6月 - 巳(み)日
7月・8月 - 戌(いぬ)日
9月・10月 - 未(ひつじ)日
11月・12月 - 辰(たつ)日
百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわ
れていたため、これらの日に貴族などは
夜の外出を控えたといわれている。
物の怪(もののけ)ー
日本の古典や民間
信仰において、人間に憑いて苦しめたり、
病気にさせたり、死に至らせたりすると
いわれる怨霊、死霊、生霊など霊のこと。
妖怪、変化(へんげ)などを指すことも
ある。
朝議(ちょうぎ)ー朝儀とは、朝堂にお
いておこなわれた、さまざまな公の儀式
の総称である。朝儀は大きく、
1.天皇即位儀、元日朝賀、任官、叙位、
  改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心
  とする儀式
2.節会や外国使への賜饗などの饗宴を
 中心とする儀式
に二分される。
奈良時代において、1.は天皇が大極殿に
御し、大極殿門をはさんで朝廷には文武
百官が列を組んで立ち並ぶかたちとなり、
2.は大極殿門に天皇が出御し、朝堂が臣
下のいる場所となった。平城宮における
この2つの形態は、平安時代の大内裏に
も継承され、1.は朝堂院、2.は豊楽院に
て執りおこなわれることとなった。
朝堂院(ちょうどういん)ー平安京にい
たって、内裏と朝堂院は完全に離れ、天
皇の私的空間と公的空間の分離がはから
れたが、大極殿と朝堂のあいだにあった
回廊は取り払われて、「龍尾壇」という
壇をのこすのみとなり、両者は「朝堂院」
として完全に一体化した。朝堂院全体の
入り口として設けられた門が応天門であ
る。
応天門(おうてんもん)ー大内裏の内側
にあった門で、朝廷内での政務・重要な
儀式を行う場であった朝堂院(八省院)
の正門である。

女房(にょうぼう)ー朝廷に仕える女官
で、一人住みの房を与えられている者を
いう。身分や出身により上臈(じょうろう)、
中臈、下臈に分けられて、宮中の雑事を
つかさどる。また、院、諸宮、公家、武
家などに仕える女、さらには、一般に侍
女をもいう。
女官(にょかん/にょうかん)ー官職を
持ち宮廷に仕える女性のこと。官女(か
んじょ)・宮女(きゅうじょ)ともいう。
男子禁制とされる後宮や后妃の私生活の
管理には必然的に女性の官人が必要とな
った。
公達(きんだち)ー平安時代中期以降、
藤原北家忠平流や宇多天皇以降の賜姓源
氏(宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏など)
などの近衛次将を経て公卿に昇進し得る
上流貴族の家系出身者を「公達」と呼ぶ
ようになり、これらの家は「公達」の家
格とされた。


市井(しせい)ー(昔、中国で、井戸のあ
る所に人が集まって市が成立したところ
から) 人の集まり住む所。ちまた。また、
そこに住む人。


後は、実際に舞台を観てから、必要であ
れば、追加します。