2回観たのによく分からない花組公演『巡礼の年』①ー私だけですか?
今晩は、壽々(じゅじゅ)です。
昨日は、花組公演『巡礼の年』Fashiona
ble Empire』の2回目の観劇に、宝塚大劇
場まで遠征してきました。
前回は2回席の左端の席だったのですが、
今回は、1階8列目のセンターで、ほぼSS
席という良席。宝塚友の会に感謝です。
で、今回もお芝居『巡礼の年』の方の記
事です。
前回は、まだ公演が始まったばかりでし
たのでネタバレしない記事を書きました
が、今回は、盛大にネタバレします。
まず、公演プログラムからストーリーで
す。
1832年、パリ。フランスは革命という
動乱の時代を経てもなお、権力を握り続
ける貴族と、台頭著しいブルジョワジー
によって牛耳られていた。毎夜開かれる
サロンでは、享楽と所有欲に溺れる貴族
がお抱えの芸術家たちに腕前を披露させ、
芸術家たちは己の技と魅力で名を揚げる
べくしのぎを削っている。
今宵、ル・ヴァイエ侯爵夫人邸サロン
に集まった貴婦人たちのお目当ては、フ
ランツ・リストー。類まれなる美貌と、
ヴィルトーゾ、すなわち超絶的な技巧を
武器に、パリのサロンを席巻している若
きピアニストである。彼がサロンを訪ね
るとなれば、婦人たちが詰めかけ、炎の
ように情熱的な演奏は聴くものを夢中に
させるのだった。誰もが羨む栄光の真っ
ただ中にいるリスト。しかしライバルで
あり同志でもあるフレデリック・ショパ
ンは、人気が高まるにつれて本来の自分
を見失っていくリストを案じていた。シ
ョパンは、リストにある批評を見せる。
ダニエル・ステルンというペンネームで
書かれたその記事は、リストを礼賛する
ものではなく、彼が向き合うべき本質が
書かれていた。リストはダニエル・ステ
ルンの正体を聞き出すと、すぐさまその
人物、マリー・ダグー伯爵夫人のもとを
訪れる。
マリー・ダグー伯爵夫人は社交界の花
形と持て囃されていたが、夫のダグー伯
爵との仲は冷え切っており、自らの存在
意義を求めるかのように男性名を騙って
ひそかに文筆活動をしていた。社交界で
本来の自分を偽って生きてきたマリーは、
リストの中に同じ苦しみを見出したのだ。
魂の根底で理解し合える女性と巡り会え
た喜びに打ち震えるリスト。この街で求
められているのは、本来の自分、❝リスト
・フェレンツ❞ではなく、虚像のフランツ
・リストなのだーそう気づいたリストは、
マリーの手を取って出奔する。
こうして二人の❝巡礼の年❞が始まった。
パリから遠く離れたスイスへ……
ただのフェレンツとマリーとして生きる
喜びを取り戻していく二人。しかし幸せ
な日々は長く続かなかった……。
さて、コメントです。
公演プログラムの演出家の生田大和先生
のコメント欄の最後の方に、「勿論、シ
ョパンの死の場にリストやサンドが居合
わせる筈の無かった事などご存知の方も
居られるであろう事は承知の上で。あく
まで「魂の彷徨」として描いている今作
では、一部の歴史的事実やキャラクター
をアレンジしている事について、どうか
寛大な心でご容赦頂ければ我々一同幸い
です。」と書いてありますので、ある程
度、史実に基づいた知識は白紙にして、
今回、観劇に臨みました。
その結果、リストではなく、私の魂が彷
徨してしまいました。
リストやマリー・ダグー伯爵夫人、そし
てショパンらの登場人物のセリフが抽象
的な表現が多くて意味がつかみにくいの
です。魂の彷徨を描いた作品ですから、
仕方がないとは思うのですが……。
1回目の観劇の時は、多分、あまり深く
考えずに聞き流していたのでしょう。
大体、ショパンがリストに向かって最後
に言うセリフ「何のために音楽をやるの
か?」は、リストでなくても?です。
演出の生田大和先生、今回の作品でのリ
ストへの思い入れが強すぎて、それが作
品を分かりにくくにしているように思わ
れます。
私には、まるで、ウエクミ作品を観てい
るように感じられました。
それでは、コメントが書けないので、生
田先生は多分、こう考えたのだろう、と
いう憶測と、大体、こんなニュアンスで
した、ということでコメントします。
場面の順番どおりではないのですが、最
初にリストの少年時代の場面。
生まれ故郷のハンガリーでリストは、ピ
アノの天才だと、モーツァルトの再来だ
と、称賛されます。そんなリストを音楽
家として育てるために、リストの父は、
リストをウィーンへ連れていきます。ウ
ィーンでもその才能を称賛されたリスト
はパリの音楽院に行き、入学しようとす
るのですが、不合格になってしまいます。
パリ音楽院院長のルイジ・ケルビーニか
らリストほどの才能の子はパリにはいく
らでもいると告げられます。中でもリス
トの前に壁となって大きく立ちはだかっ
たのは天才ショパンでした。
初めての挫折にリストは、心に大きな傷
を負います。
この少年時代に負った心の傷が後にリス
トを狂わせることになります。
そして、リストは天才ショパンの背中を
ライバルとして追い求めることになるの
です。
その後、作品には出てこないですが、リ
ストは懸命の努力を重ねたのでしょう。
超絶技巧のピアニストとして、パリのル
・ヴァイエ侯爵夫人のサロンに颯爽と登
場します。
この、ル・ヴァイエ侯爵夫人のサロンで、
リストが貴族や貴婦人たちに囲まれ、華
麗な演奏をする場面の生田先生の選出が
見事です。
まず、貴族や貴婦人たちの衣裳が豪華で
華やかです。
その真ん中の一段と高い所にピアノが置
かれていて、リストは立ったままピアノ
に向かいます。そして、ピアノを弾こう
として弾くのをやめて、また、ピアノを
弾こうとして髪の毛を掻き上げます。
そうして観客を焦らせておいたあとから
のピアノの演奏は、怒涛の勢いです。
そして、台から飛び降りたリストは、貴
族や貴婦人たちと歌い踊ります。
このあたり、柚香光さんの魅力満開です。
貴婦人達だけでなく女性の観客の皆さん
も、心の中でキャーでしょう。多分。
そんな大騒ぎのサロンの片隅で羽ペンで
紙に何かを書き込んでいる婦人がいまし
た。夫のダグー伯爵に連れられて、、ル
・ヴァイエ侯爵夫人のサロンにやってき
た、マリー・ダグー伯爵夫人です。マリ
ーは、リストの演奏を聴いてその批評を
書き、新聞社にダニエル・ステルンとい
う男性のペンネームで投稿します。
演奏が終わったリストにパトロンのラビ
ュナルド伯爵夫人が歩み寄り、昨夜はど
こにいたのか、と問い詰めます。
独占欲の強いラプリュナレド伯爵夫人は、
リストを独り占めにしようとします。
今夜は自分の所へ来るようにリストに命
じます。
そんな、ラプリュナレド伯爵夫人の束縛
から逃れるため、リストは、ジョルジュ
・サンドの許に通うのでした。
で、冒頭の場面です。
ジョルジュ・サンドの住む屋根裏部屋。
寝椅子でまどろむフランツ・リストの傍
らには、自作の小説を煙草を吸いながら
読むジョルジュ・サンドの姿がありまし
た。鐘の音で目を覚ましたリストにジョ
ルジュ・サンドは、「お早う、王子様」
と声を掛けます。起き上がってピアノに
向かって演奏し始めるリスト。
(ここは、柚香光さんが本当にピアノを
弾いています。2階席からだとよく見え
ます。ちょっと凄いですね。)
そして、リストとジョルジュ・サンドの
デュエット。その中で、リストとジョル
ジュ・サンドは、今は、貴族たちから見
下されているけれど、いつか見返してや
ると野心を顕わにします。
そして、寝椅子に横たわったリストに覆
いかぶさったジョルジュ・サンドが半分
上着を脱いだ状態で、舞台から迫り下が
っていきます。
さて、私が?と思ったのは、何故このリ
ストとジョルジュ・サンドの場面を生田
先生は冒頭に持ってきたかです。
ジョルジュ・サンドはどちらかと言えば、
ショパンの愛人として知られています。
ただ、あのジョルジュ・サンドとリスト
の場面は、強く観客に印象付けられたの
ではないでしょうか。
そうしておいて、後にリストと駆け落ち
するマリー・ダグー伯爵夫人に対立する
人物としてジョルジュ・サンドという人
物を位置づけたのではないかと……。
ジョルジュ・サンドは、リストがパリで
名声を得るという野心を理解し、それを
支える側にいます。だからこそ、リスト
がマリー・ダグーと駆け落ちしたスイス
のジュネーヴまで、リストを追いかけて
行って、パリに戻ってもう一度だけ演奏
して欲しいと願うのです。
一方の、マリー・ダグー伯爵夫人は、リ
ストの演奏を聴いて、リストが心に傷を
抱え、自分らしく生きていないことに気
づき、それを批評として書いて、新聞に
投稿します。ショパンからその記事を見
せられたリストは、その記事が自分の向
き合うべき本質を描いていることに驚き、
その筆者マリー・ダグー伯爵夫人の許を
訪れ、そして、二人でスイスのジュネー
ヴに駆け落ちします。つまり、マリー・
ダグー伯爵夫人は、リストに本来の自分
を取り戻させる側にいるのです。
なお、リストがマリー・ダグー伯爵夫人
の居室を訪れて、その後、駆け落ちする
場面がちょっと驚きです。
リストは、何とマリー・ダグー伯爵夫人
の居室の窓から現れます。
『ロミオとジュリエット』かと思ってし
まいました。
しかも、二人は、パリから駆け落ちする
事を決意し、その窓から手に手を取って
そのまま駆け落ちします。
いくら何でも無理があるような……。
さて、スイスのジュネ―ヴに駆け落ちし
たリストとマリーは、ジュネ―ヴの森で
無邪気に鬼ごっこをしています。マリー
は、リストを「爺や」と呼びます。リス
トはマリーに何故王子様ではなく、「爺
や」と呼ぶのか、と尋ねます。
リストでなくても、何故、マリーはリス
トを「爺や」と呼ぶのか訊きたくなりま
す。
冒頭の場面で、ジョルジュ・サンドは、
リストを「王子様」と呼びました。
生田先生は、なぜ、マリーにリストを
「爺や」と呼ばせたのでしょうか?
多分、「爺や」という呼び方は、「王子
様」よりも、聴いている者に、より親近
感とか心やすさを感じさせるのではない
でしょうか。だから、マリーはリストを
親近感をこめて「爺や」と呼んだのでは
ないかと……。
なお、この時、リストは24歳、マリーは、
30歳です。
長くなったので、②に続きます。