妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

月組公演『応天の門』の主な登場人物について紹介①ー「紀長谷雄」

今日は、壽々(じゅじゅ)です。


「昭姫」と「菅原道真」と「在原業平」
については、すでに紹介したので、次は、
原作漫画の常連さんで、宝塚の舞台でも
よく出てくると思われる「紀長谷雄」と
「白梅」と「藤原基経」の3人について、
紹介します。


今回は、彩海せらさん演じる「紀長谷雄」
についてです。


まず、ウィキペディアには、こう書かれ
ています。
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業平の妻の縁者で、道真の学友。博打や
女に目がなく、文章生試験にも消極的で
落第し続け、度々問題を起こしては道真
に助けを求めているため、道真には突き
放された物言いをされることが多い。
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原作の人物紹介には、こう書かれていま
す。
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道真の親友であり、業平の親類でもある
青年。気は弱いが知りたがりのため、よ
くトラブルに巻き込まれている。
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どちらも、余り、いい書かれ方をしてい
ないのですが、まあ、軽薄というか、調
子がいいというか、臆病なくせに知りた
がりというか。この人物の存在・行動・
キャラがこの作品の話を面白くしている
面があります。


ウィキペディアの解説には、「道真の学
友。」とありますが、道真と同じ大学寮
に在籍しています。
「文章生試験にも消極的で落第し続け」
とあって、いかにも劣等生のような書か
れ方(実際に、文章生である道真にはそ
う言われていますが)をされていますが、
一応は、大学寮の寮試を受けて合格した
擬文章生(定員20名)です。
(「文章生」等については、以前の記事
の「菅原道真」をご参照ください(↓))
ただ、真面目に勉強せず、遊んでばかり
います。


「博打や女に目がなく」は、確かに、長
谷雄は、業平ほどではないですが、女に
は目がありせんが、博打の方は、昭姫の
店で「米二百石」の借財を負ってからは、
懲りたようで手を出していません。
なお、この長谷雄の借財が、原因の一つ
で、道真は昭姫と双六勝負をすることに
なります。


ところで、紀長谷雄は実在の人物です。
本当に、この原作に描かれているような
人物だったのでしょうか?
宝塚の舞台とは関係ないですが、紀長谷
雄はどんな人物だったのかをウィキペデ
ィアから引用します。
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 平安時代前期の公卿・文人。官位は従
三位・中納言。『長谷雄草紙』の主人公。
 若い頃より学問を志し、18歳にして文
章をつづることを会得したが、有力な援
助者はなく、紀伝道の名家であった菅原
氏・大江氏などとは異なり、学問を指導
し取り立ててくれる人物にも恵まれなか
ったという。
 貞観18年(876年)32歳にしてようや
く文章生に補せられ、字を紀寛と称した。
 元慶5年(881年)文章得業生となるが、
このころ長谷雄は次第に菅原道真の人柄
に引かれ、道真と同門の党を結ぶように
なった。
 元慶7年(883年)対策に丁科で及第し
て三階昇進し従七位下に叙せられた。そ
の後、讃岐掾・少外記を経て、仁和4年
(888年)従五位下に叙爵するが、道真
の推挙によるものとも想定される。
 宇多朝前半は、図書頭・文章博士・式
部少輔を歴任する。寛平6年(894年)に
従五位上・右少弁に叙任されると、寛平
7年(895年)正五位下、寛平8年(896年)
従四位下と宇多朝後半は急速に昇進を果
たし、この間の寛平7年(895年)に式部
少輔・大学頭・文章博士を兼ねて三職兼
帯の栄誉に浴し、寛平9年(897年)には
式部大輔兼侍従に任ぜられた。
 長谷雄の知識や政務能力、そして人柄
は宇多天皇からも早くから嘱目されてお
り、宇多上皇が醍醐天皇に与えた御遺戒
の中でも、藤原時平、菅原道真、藤原定
国、平季長と並べて、長谷雄を「心をし
れり、顧問にも、そなわりぬべし」ある
いは「博く、経典に渉り、共に大器なり」
と評して推挙されている。
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文章生になった年齢は32歳と遅かったも
のの、ちゃんと、文章得業生にもなって
いて、かなり優秀な人物であったことが
伺えます。
なお、『長谷雄草紙』には、長谷雄は双
六の名手として、朱雀門の鬼と双六勝負
をする話が載っており、原作漫画は、こ
の逸話を基にして書いたものと思われま
す。


ということで、原作漫画は、実在の人物
をそのままでなく、上手く利用して、原
作者が創作しているのだということが分
かります。


さて、彩海せらさんがこの紀長谷雄をど
う演じるのか、楽しみです。