妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

2回目観劇行ってきました~!!花組公演『巡礼の年』。②

今晩は、壽々(じゅじゅ)です。


①の続きです。


さて、この作品で、リストの友人でライ
バルでもあるフレデリック・ショパンの
立ち位置はどこでしょうか?
実は、ショパンは、マリー・ダグー伯爵
夫人と同じ側の立ち位置にいます。
むしろ、マリー・ダグー伯爵夫人よりも
もっと、リストに寄り添っているように
思われます。
ショパン・水美舞斗さんのリスト・柚香
光さんに向けるまなざしは、限りなく優
しいのです。
そして、同じ音楽家として、リストの良
き理解者でもありました。


それが表れるのが、リストが多分、ラプ
リュナレド伯爵夫人の所からジョルジュ
・サンドの屋根裏部屋に戻って(髪が乱
れていらだっています。何があったので
しょう?)、今後は誰とも共演しないと
仲間を見下す発言をした時です。
ショパンはリストに対して、マリー・ダ
グー伯爵夫人がダニエル・エステンとい
うペンネームで書いた新聞評を見せます。
そこには、リストが向き合うべき本質が
書かれていたのです。
ショパンは、サロンで持て囃されて、自
分を見失いつつあるリストを心配したの
です。


さて、電光石火のごとくパリからスイス
のジュネーヴに駆け落ちしたリストとマ
リーですが、その幸せな時間は、長くは
続きませんでした。
ジョルジュ・サンドを筆頭にその仲間の
ヴィクトル・ユゴーら芸術家仲間たちが
大挙して、リストとマリーの所へ押し寄
せます。
不機嫌になって部屋を飛び出したリスト
の後を追ったジョルジュ・サンドは、リ
ストにもう一度だけパリに戻って演奏し
て欲しいと頼みます。
パリでは、ラプリュナレド伯爵夫人は、
リストの代わりにピアニストのタールベ
ルクのパトロンになって、タールベルク
が称賛されていることにジョルジュ・サ
ンドは我慢できなかったのでした。


ところで、このタールベルク、実在の人
物で、当時は、リスト、ショパンと並ぶ
ピアノの名手でした。
ただ、リストの演奏を聴いたタールベル
クは、呆然とし、リストがウィーンに滞
在中はピアノを演奏しなかったとのこと
です。


さて、リストとタールベルクのピアノ対
決は決着がつかず、引き分けで終わろう
とした時、リストはピアノに向かって、
スイスのジュネーヴに滞在していた時に
作曲した曲を弾き始めます。
この演奏が聴衆から拍手喝采を浴びます。
演奏が終わって、リストは一緒にパリに
付いてきたマリーに聞いたか?と尋ねま
す。マリーは、ええ、いい演奏だったわ、
と答えますが、リストは「喝采を」と言
います。
ここから、リストとマリーの心がすれ違
い始めるのです。


そこへ、ハンガリー貴族のレオ・フェス
テティタス伯爵が訪れて、リストにドナ
ウ川の氾濫による被害に見舞われた人々
を救うためにチャリティーコンサートで
演奏して欲しいと依頼します。
これが最後だとマリーにした約束を破り、
マリーを残して、リストはウィーンへ向
かいます。
この時、リストの手を離してしまったこ
とをマリーは、後々まで後悔するのでし
た。


ウィーンでのコンサートで成功を収めた
リストは、故郷ハンガリーから爵位と宝
剣を授かります。
宝剣を抜いてリストは、ハンガリー狂詩
曲をバックに意気揚々と踊ります。


ここの柚香光さんの踊りが素敵です。
ただ、次第に狂っていくリストの姿はむ
しろ哀れでさえあります。
そんなリストの姿を柚香光さんが見事に
表現しています。


一方のマリーは、パリで伯爵の許に戻る
こともできず、困窮します。そんなマリ
ーに新聞社での仕事を斡旋したのは、ジ
ョルジュ・サンドでした。その新聞社は、
共和主義者の市民運動を支援しており、
マリーも市民運動に身を投じていきます。


ヨーロッパ各国でのコンサートで、称賛
され、王侯貴族のような待遇を受けるリ
スト。一方で1848年にパリで始まった共
和主義運動に身を投じていくマリー。
二人はすれ違うどころか、正反対の道を
歩き始めます。


なお、新聞社の編集長のエミール・ド・
ジラルダン役の聖乃あすかさん。
1回目観たときには、誰か分からなかっ
たのですが、公演プログラムを見て、聖
乃あすかさんだと分かり、2回目は、しっ
かり、見ました。
大分、イメージが変わったように思いま
す。多分、永久輝せあさん主演の『冬霞
の巴里』からだと思います。
やや甘いマスクからなんだか精悍な感じ
になったような気がします。


ところで、マリー達共和主義運動家たち
が「シトワイヤン」と互いを呼ぶのを聞
いて、この作品に新鮮味がないという人
がいますが、宝塚は『ベルサイユのばら』
を始め、フランス革命を扱った作品が多
いので、「シトワイヤン」が多く出て来
るのは仕方のないことでしょう。
なお、「シトワイヤン」は「市民」とい
う意味ですが、日本語の「市民」とは概
念が異なるので、宝塚ではフランス語の
まま「シトワイヤン」を使っているもの
と思われます。
なお、ハンガリーが『エリザベート』を
連想させるというのも、『エリザベート』
の見過ぎだと思います。


さて、王侯貴族に肩を並べて、自分を
「音楽の王だ」と叫んだリストは、共和
主義運動によって、それが足元から崩れ
ていくのを目の当たりにします。


で、さらに③に続きます。(③では結末
まで書きます)


①の記事を載せておきます。(↓)