妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

小池修一郎氏の演出が少し残念な月組公演『グレート・ギャツビー』。

今日は、壽々(じゅじゅ)です。
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最初にお断りしておきますが、この記事
は演出に関するものであって、出演者に
関する批判記事ではありません。
(演出に関する批判記事を書いているの
に出演者に対する批判記事のように受け
取る方がみえるので……。)
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当然、原作小説を舞台化するのには限界
があります。
舞台は、長くても上演時間がせいぜい2時
間半。
小説の内容をそのまま舞台化することは、
不可能です。
また、舞台は、演出家がいるのですから、
小説の内容をそのまま舞台化しては、演
出家の存在そのものが問われます。


そんなことは、百も承知ですが、それで
もやはり、この宝塚月組公演の『グレー
ト・ギャツビー』は、原作から見ると、
大きく違う作品になってしまいました。


月組公演の『グレート・ギャツビー』の
ライブ中継を観ましたが、唖然としてし
ました。(大劇場観劇はすべて中止にな
ってしまったので)
これでは、フィッツジェラルド原作の
『グレート・ギャツビー』ではなく、
小池修一郎原作の『グレート・ギャツビ
ー』です。


村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』
のあとがきに村上春樹氏はこう書いてい
ます。
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もし「これまでの人生で巡り会ったもっ
とも重要な本を三冊あげろ」と言われた
ら、考えるまでもなく答えは決まってい
る。この『グレート・ギャツビー』と、
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
と、レイモンド・チャンドラー『ロング
・グッドバイ』である。どれも僕の人生
(読書家としての人生、作家としての人
生)にとっては不可欠な小説だが、どう
しても一冊だけにしろと言われたら、僕
はやはり迷うことなく『グレート・ギャ
ツビー』を選ぶ。もし『グレート・ギャ
ツビー』という作品に巡り会わなかった
ら、僕はたぶん今とは違う小説を書いて
いたのではあるまいかという気がするほ
どである(あるいは何も書いていなかっ
たかもしれない。そのへんは純粋な仮説
の領域の話だから、もちろん正確なとこ
ろはわからないわけだが)。
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ここまで、村上春樹氏が称賛するフィッ
ツジェラルド原作の『グレート・ギャツ
ビー』を小池修一郎氏は、大きく変更し
てしまいました。


宝塚ファンにとっては、小池修一郎氏の
『グレート・ギャツビー』の方が受け入
れやすいのかもしれません。
ただ、本当にそれでいいのか、という事
になると、かなり疑問に感じます。


あの宝塚の舞台で上演されている『グレ
ート・ギャツビー』は、フィッツジェラ
ルド原作の『グレート・ギャツビー』と
は、かなり違うものだ、ということだけ
は、頭の片隅に入れておいて欲しいと思
います。


参考として原作の一部を引用します。
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僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかっ
たころ、父親がひとつ忠告を与えてくれ
た。その言葉について僕は、ことあるご
とに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときに
は、こう考えるようにするんだよ」と父
は言った。「世間のすべての人が、お前
のように恵まれた条件を与えられたわけ
ではないのだと」
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僕の家は三代にわたって、この中西部の
都市ではいささか名を知られており、暮
らしぶりも裕福だった。キャラウェイと
いえばちょっとは名を知られた家柄だっ
た。言い伝えによればバックルー公爵を
祖先にいただいているということだが、
一族の実際の礎は、僕の祖父の兄にあた
る人物によって築かれた。彼は1851年
に当地に移ってきた。そして南北戦争の
ときに徴兵されたが、身代わりを立てて
兵役を逃れ、金物卸売りの仕事を始めた。
そして今では僕の父がビジネスを引き継
いでいる。
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三時少し前にルター派教会の牧師がフラ
ッシングからやってきた。ほかにやって
くる車はないものかと、僕は窓の外にち
らちらと目をやっていた。見るまいと思
いつつも、つい視線がいってしまう。ギ
ャツビーの父親も同じように外に目をや
っていた。
そして時間が経過し、使用人たちが姿を
見せ、玄関に立って出発の合図を待ち始
めたとき、彼の目は心配そうに細められ、
心許なげに、困ったように雨について何
か言った。牧師は何度か時計に目をやっ
た。僕は牧師を見えないところに呼んで、
あと半時間ほど待ってもらえないだろう
かと頼んだ。しかし、そんなことをして
も無駄だった。結局誰も来なかったのだ。
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僕はそのとき、ギャツビーのことを考え
ようとしばし努めたのだが、彼はもう既
に遠いところに去っていた。僕に思いつ
けることといえば、デイジーが弔電ひと
つ、花ひとつ送ってこなかったという事
実くらいだった。でも、それを咎める気
持ちはなかった。
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僕には彼を許すこともできなかったし、
好きになることもできなかったけれど、
少なくともトムにとっては、自分のなし
た行為は完全に正当化されているのだと
いうことがよくわかった。すべてが思慮
を欠き、混乱の中にあった。トムとデイ
ジー、彼らは思慮を欠いた人々なのだ。
いろんなものごとや、いろんな人々をひ
っかきまわし、台無しにしておいて、あ
とは知らん顔をして奥に引っ込んでしま
うー彼らの金なり、測りがたい無思慮な
り、あるいはどんなものかは知れないが、
二人を一つに結び付けている何かの中に。
そして彼らがあとに残してきた混乱は、
ほかの誰かに始末させるわけだ……
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ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年
を追うごとに我々の前からどんどん遠の
いていく、陶酔に満ちた未来を。それは
あのとき我々の手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろ
う。両腕をもっと先まで差し出そう。
……そうすればある晴れた朝にー
だからこそ我々は、前へ前へと進み続け
るのだ。流れに立ち向かうボートのよう
に。絶え間なく過去へと押し戻されなが
らも。
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これだけ引用しただけでも、作品の印象
は大きく違うだろうと思います。
最初の二つは、原作の冒頭部分であり、
語り手のニックが富裕層とまでは言えな
いとしても、それなりの伝統ある家柄の
裕福な家に生まれたことを語っています。


三つめは、ギャツビーの家から墓地に出
掛ける前の場面であり、ニックは、ギャ
ツビーの父親以外には、誰も来なかった
と語っています。


四つ目は、ギャツビーを埋葬する墓地の
場面であり、フクロウ眼鏡の男が墓地に
やってきた以外は、新たな人物は姿を見
せず、ニックは「そういえば」という形
でデイジーは葬儀に来ないばかりではな
く、弔電も花も送ってこなかった、と改
めて思います。


ここが宝塚の舞台と大きく違うところで
す。
宝塚の舞台では、トムが運転する車でデ
イジーが墓地にやってきて、白いバラの
花を1本墓穴に投げ入れて、無言のまま
再びトムの車に乗って去っていきます。
どうしても分からないのは、この場面を
小池修一郎氏が追加したことです。
私は、原作のままでも良かったのではな
いかと思うのです。
ここになんとなく、宝塚の舞台の限界を
感じるような気がします。


五つ目の場面は、ギャツビーの死後、ニ
ックがトムと再会する場面です。
トムはマートルを車でひき殺したのは、
ギャツビーだと思い込んでいるし、ニッ
クもトムに真実を語ることができません。
そうであっても、ニックは、トムとデイ
ジーに対して、このように思うわけです。
トムとデイジーは、当時のアメリカの富
裕層の振る舞いを代表していると言える
でしょう。
ニックが「でも、それを咎める気持ちは
なかった。」と語るのは、そのためでし
ょう。


最後の部分は、原作のラストの部分です。
これも小池修一郎氏は見事にカットして
してしまいました。
ニックを語り手でなくしたことによるも
のかと思いますが、このことにより、原
作の素晴らしさのかなりの部分が削られ
てしまったように思います。


20世紀文学の傑作といわれる原作がこ
のような形で舞台化されてしまったこと
は、残念としかいいようがありません。


これなら、ディカプリオ主演の映画版
『華麗なるギャツビー』の方が原作に忠
実でまだ、ましといえるでしょう。


ただ、月城かなとさんのギャツビーは、
やっぱり素敵ですよね。
これだけは、宝塚版でないと観られない。


原作を読んでなければ、余り疑問に思う
こともなかったのでしょう。