妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

『双曲線上のカルテ』は、「男のエゴ」か?

今晩は、壽々(じゅじゅ)です。


和希そらさん主演の『双曲線上のカルテ』
が大阪公演の千秋楽を終えて、いよいよ、
9月11日から日本青年館ホールでの公演が
始まります。


私は、いい作品だと思うのですが、結構、
批判的な感想が多いようです。


その主なものについいて、私なりの検討
(まあ、反論ですか)をしてみたいと思
います。(ネタバレあります)


まず、原作は、渡辺淳一氏の『無影燈』
で、今から51年前の作品です。
それを舞台を1980年代のイタリアに移し
たのが、今回の『双曲線上のカルテ』で
す。


まず、これを念頭に置く必要があります。


なお、原作者の渡辺淳一氏は、医師です。
したがって、『無影燈』は、医師の視点
から書かれた小説と言えます。


私は、渡辺淳一氏の作品は、日本経済新
聞に連載されていた『愛の流刑地』しか
読んでいないのですが、新聞にこんな連
載を載せていいのか、と思うような内容
でした。


『無影燈』は、読んでないのですが、ま
あ、同じような内容ではないかと思いま
す。(あまり、女性向でないような)


なんとなく、星組で上演した山田風太郎
原作の『柳生忍法帖』を思い出します。


あの山田風太郎氏特有のエログロ作品を
どうやって宝塚で舞台化するのか、と思
っていたら、エログロ部分はほとんど消
し去られ、なんだか、味気ない作品にな
っていました。


今回もよりによって、何で渡辺淳一氏の
作品を宝塚の舞台で上演し、しかも再演
までするのか、という劇団側の意図が分
かりません。


それはともかく、まず、フェルナンドが
ランベルトの反対にも拘わらず、末期の
胃がん患者であるチェーザレにもその妻
にも胃がんであることを告知しないこと
に対する批判がありました。


ただ、この話は上で書いたように40年前
のイタリアが舞台です。


40年前のイタリアががん告知に対して、
どういう状況であったかを知る術はあり
ませんが、少なくとも、日本においては、
信頼できる情報によれば、「「非告知」
から「告知」の時代となった転換点は、
1990~2000年ごろにある。」とされて
います。


つまり、30年以上前の時点では、「非告
知」が主流であったことになり、現在の
視点から、フェルナンドががんを患者に
告知しなかったことを批判するのは、的
外れであることになります。


こちらの方が、この作品に対する批判と
して圧倒的に多いのが、フェルナンドの
モニカに対する対応です。


「男のロマン」と書いている方がみえま
すが、意味不明なので「男のエゴ」の間
違いでしょう。


まず、フェルナンドが自分が難病に罹っ
ていて、助からない状態であることを誰
にも知らせず、新しく病院に来た看護婦
のモニカと恋愛関係になり、そのモニカ
と共に自分の故郷へ旅に出て、モニカだ
けを先に帰し、自分は湖に身を投げて自
殺するという部分です。


これは、主人公を女性にして、恋人を男
性看護師にしても話が成り立つことから
も分かるように、それではその場合は
「女のエゴ」と言うのかと言われれば、
そうではないでしょう。
まあ、「エゴ」と言われれば、「エゴ」
でしょうが、「女のエゴ」とは言われな
いでしょう。


ヒロインが難病に冒されて最後に死ぬと
いう作品は、沢山ありますが、ちょと、
古いものでは、『愛と死をみつめて』
(1963年)が有名でしょう。


それでは、軟骨肉腫に冒され21年の生涯
を閉じた大島みち子がエゴだったかとい
うと、そうは言われていないと思います。


なお、これは、実話を元にした作品です
が、大島みち子の恋人の河野實がその後、
別の人と結婚したりして、結構、批判さ
れていました。
結婚しては、いけないんですかね。


話を戻すと、「男のエゴ」というのは、
フェルナンドがモニカを妊娠させるとい
う部分でしょう。


ここだけは、男女を入れ替えることが、
できないからです。


原作をベースに批判されている方がみえ
ますが、この『双曲線上のカルテ』は、
大筋は原作通りでも、大分、話を宝塚向
けに変えていますので、原作をベースに
(特に、遺書の部分)、批判するのはお
かしいでしょう。


また、何で、避妊しなかったのか、と書
いている方もみえますが、さすがに、避
妊すれば、モニカもおかしいと気付いた
と思います。


モニカがフェルナンドの子どもを妊娠し
なければ、別の人生があっただろうと書
いている人もいますが、これは、フィク
ションですので、そんなことを考えても
意味のないことです。


ただ、これが実話だったとしても、モニ
カがフェルナンドの子どもを妊娠しなく
て、別の人と結婚していれば幸せになっ
たか、というと、それは分からないとし
か言いようがないと思います。


おそらく、フェルナンドがモニカを妊娠
させたことを批判する人の頭の中には、
「母子家庭(シングルマザー)=不幸」
という図式があるのではないでしょうか。


確かに、日本のひとり親世帯の半分は、
貧困状態であり、それは非正規社員にし
かなれなくて、賃金が低く、子育てもま
まならないという現状があります。


それは、日本では、母子家庭を支える十
分な制度が整っていないことによるもの
と思います。


ただ、その日本の現在の母子家庭の実情
をそのままモニカに当てはめるのは、無
理があると思います。


モニカは看護婦です。そして、最後には、
ホスピスで勤務しています。
貧困で苦労しているという状況ではなさ
そうです。


フェルナンドは、クラリーチェから、な
ぜ、私でなくてモニカなのかと問われた
時に「疑うことを知らないからだ」と答
えています。


フェルナンドが最も恐れたことは、自分
の病気を他人に知られる事でした。
だから、痛み止めのモルヒネも治験薬も
クレメンテの元から取り寄せているので
す。
多くの患者の死を看取っている医師だか
らこそ、病院のベッドの上で、ただ、死
を待つことがどんなにその患者に恐怖を
与えるかを知っていたからでしょう。
(もう一度、繰り返しますが、原作者の
渡辺淳一氏は医師です。)


だから、フェルナンドは、疑うことを知
らないモニカにだけは心を許すことがで
き、深く愛してしまったのだと思います。


フェルナンドが自殺した後、なぜ、私だ
けがフェルナンドの病気を知らなかった
のかと問いかけた時に、ランベルトは、
「君だけを愛していたからだ」と答えて
います。


一方のモニカも、フェルナンドの患者に
向かう時の真摯さ、患者に対する思いや
りに心動かされて、フェルナンドを心か
ら愛してしまったのでしょう。


もし、モニカがフェルナンドの病気を知
ったとしても、この愛は変わることはな
かったのだと思います。


だからこそ、フェルナンドが自殺した後、
フェルナンドとの間に生まれた男の子と
湖畔に一面の向日葵が咲いている場面で
は、モニカは幸せそうにしていたのでし
ょう。


フェルナンドを喪った悲しみは残るでし
ょうが、モニカは、決して、不幸なんか
ではなかったと思います。


私がそう思うのには訳があります。
私の母方の祖母も早くに夫を病気で亡く
しました。
愛する人を亡くすことは、悲しく辛いで
しょう。
また、妻と子供を残して、先に亡くなっ
た私の祖父も辛かったのだと思います。
ただ、祖母は、一人の娘を産み、その娘
(私の母です)は、二人の息子を産み
(その一人が私です)、そして、二人の
息子は、さらに、それぞれ、二人の子供
を作りました。
祖母は、それまで、生きていて、私の下
の子供の小さい頃に亡くなりました。


私の祖母は、二人の孫と四人の曾孫を見
てから亡くなったのです。
その祖母の人生は、不幸だったのでしょ
うか。私は、そうではないと信じていま
す。


だからこそ、モニカがさも不幸であるか
のような感想には、私は、反発を覚える
のです。


フェルナンドは、天国への入り口で、末
期胃がんで死んだピザ屋の店主のチェー
ザレから二つの質問をされます。
「お前は自分自身の人生に喜びを見出せ
たか?」と「お前は他人の人生に喜びを
与えたか?」です。
フェルナンドは、どちらの質問にも「は
い」と答えます。


モニカの人生に喜びを与えたと考えたか
らでしょう。