妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

花組公演『冬霞の巴里』のモチーフの「オレステイア三部作」を読んでみました。

今日は、壽々(じゅじゅ)です。


花組公演『冬霞の巴里』の感想が人それ
ぞれで、結構、面白かったです。
なるほど、そういう捉え方もあるんだと
いうところで、これは、演出家の方でわ
ざとそうしているのかな、とも思いまし
た。


この公演プログラムの演出家の指田珠子
先生のコラムに、「オレステイア三部作」
に書かれた注釈の中で、印象に残ったもの
として、
「ーゼウスは苦しみを和らげることはしな
いが、苦しみによって人間が悟得するもの
にこそ、最大の価値があることをもってよ
しとせよ、と告げて、人間を突き放してい
る。人間は苦しみ続けて、苦しみの中にあ
る価値を自ら見出して、これを神の恵みと
するほかはないのであるー」(岩波書店、
橋本隆夫・久保正彰訳)を挙げながら、
「役者の演じる悩み苦しむ姿を見て、辛い
と思うと同時に、そこにある種の面白さを
見出してしまうのはどうしてでしょう……
?(以下、略)」「永久輝せあの秘めたる
凶暴性を見たくてなりません。」と書いて
います。
少々、サディスティックなのではないかと
思ってしまいます。


それはさておき、指田珠子先生の印象に残
ったものはどんなものかと考えて、ちくま
文庫の「ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロス」
を買ってみました。
出版社も訳者も違うので、ぴったり同じ個
所はないのですが、全体の物語の中で同様
のものを感じることはできました。


ところで、この「オレステイア三部作」、
ちくま文庫の「ギリシア悲劇Ⅰ アイス
キュロス」の中に収められているのです
が、小さな文字で220ページほどありま
す。
しかも、やたらとコロスという合唱隊が
出てきて長い歌を歌います。
(実は、ギリシア悲劇は、俳優同士だけ
でなく、このコロスという合唱隊と俳優
とのやり取りによっても劇が進行してい
くという形式をとっているのです。)


とても全部は読んでる暇がないので、斜
め読みをした後、最後の「解説」を読み
ました。
「三部作」ですから、「アガメムノン」
「供養する女たち」「慈しみの女神たち」
の3つの作品で構成されていています。
この中で、『冬霞の巴里』に相当するの
は、「供養する女たち」の部分になりま
す。


なるほど、これは『冬霞の巴里』のモチー
フでしかないな、と思うところは、確かに
オレステスの父であるアルゴスの王アガメ
ムノンは、その妻である王妃クリュタイメ
ストラの手によって殺害され(「アガメム
ノン」)、その仇を姉弟であるエレクトラ
とオレステスが討つことになる(「供養
する女たち」)のですが、これにギリシ
アの神々(アポロン、アテナ)が関与する
(「慈しみの女神たち」)ところです。


「慈しみの女神たち」では、クリュタイメ
ストラの亡霊が現れ、復讐の女神達(エリ
ニュス)をけしかけてオレステスを殺そう
とします。そのオレステスを護るのがアポ
ロンとアテナの2神です。この2神によって、
かろうじて、裁判においてオレステスは死を
免れることになります。


当然ながら、『冬霞の巴里』には、アポロン
もアテナも出てきません。
復讐の女神達(エリーニュス)は出てきます
が、それは、オクターヴの復讐心の象徴とし
てでしょう。
したがって、「オレステイア三部作」は、や
はり、『冬霞の巴里』の単なるモチーフと言
わざるを得ません。


なお、「オレステイア三部作」となっていま
すが、オレステスが登場するのは、後の2作
だけで、最初の「アガメムノン」には登場し
ません。
むしろ、三部作通して登場するのは、クリュ
タイメストラです。(最後の「慈しみの女神
たち」では亡霊となって登場ですが。)
この作品では、オレステスよりもその母親で
あるクリュタイメストラの方が存在感が大き
いように感じました。
この辺も『冬霞の巴里』とは異なるところで
す。


しかし、演出家というものは、こんなギリシ
ア悲劇まで熟知しているものだな、と感心し
ます。
というよりも、ギリシア悲劇は演出家にとっ
ては、シェイクスピアの戯曲のような必須の
知識なのかもしれません。


「ギリシア悲劇Ⅰ アイスキュロス」、読み
づらそうですが、せっかく買ったので暇が出
来た時にちゃんと読んでみようと思います。