妻が宝塚ファンで……。

ミュージカル観劇や日々の時事問題などについて綴ります。

やっぱり、月城ギャツビーが素敵な月組公演『グレート・ギャツビー』ライブ中継を観ての雑感。

今晩は、壽々(じゅじゅ)です。


昨日は、月組東京宝塚劇場公演『グレート
・ギャツビー』の千秋楽ライブ中継を観に
映画館へ行ってきました。


本来なら、東京公演無事完走おめでとう、
と言うべきなのでしょうが、宝塚大劇場公
演の観劇予定が3公演全部休演になってし
まって、千秋楽ライブ中継2回だけの観劇
になった身としては、とてもおめでとうと
言う気分にはなりません。


ただ、宝塚大劇場公演がほぼ全部休演にな
ってしまって、東京公演が不安だったと思
われる月組の皆さんにとっては、完走出来
て、本当に良かったと思います。


月城かなとさんも、終演後の挨拶で、初日
が中秋の名月で明日が満月で、ということ
は今日はほぼ満月です、と言っていて嬉し
そうでした。
月城かなとさんが退団者お二人の背中をず
っと押さえていたのが印象的でしたが、手
は二本しかないので……。
最後は、退団者三人の掛け声による月組大
ジャンプで締めました。


さて、今回は、原作や映画版から離れて、
この宝塚版『グレート・ギャツビー』に
ついての雑感みたいなことについて、月城
ギャツビーを中心に書いてみたいと思いま
す。(月城さんの千秋楽の話もさっきのほ
ぼ満月の話だけで、退団者3名の話もなし
です。すみません。)

まず、月城かなとさんがギャツビーという
役に本当によく似合っていると改めて思い
ました。
月城さん演じるギャツビーは、スタイリッ
シュで洗練されていて、ある意味、これぞ
宝塚の男役という感じになっていました。

ピンクのスーツも含めて、登場するたびに
スーツが変わっていて、そのどれもが本当
に似合っているんですよね。さらに、コー
トを羽織って、帽子を被った姿は、本当に
格好いいです。
このコート姿を見せるために、原作では
ひと夏の出来事になっているのを宝塚版
では季節を変えたのではないか、と思っ
ています。
大金持ちで傲慢なトムよりもギャツビー
の方が、余程、洗練された上流階級の人
間に見えます。

もう一つ、季節が変わったことによって、
プラザ・ホテルへ行くというのが、ギャツ
ビーとトムとのゴルフ対決になりました。
ただ、このゴルフ対決がデイジーをゴルフ
の勝負の賭けの対象にしているように見え
てしまってどうも感心できません。
原作に戻すか、ストーリーを変えた方がい
いのでは、と思いました。

話が、あちこちに飛びますが、トムがジー
グフェルド・フォリーズのヴィッキーの楽
屋で、金品全部巻き上げられるのは、原作
にない話です。
全体的にトムの傲慢さが目立つ話ですので、
ここで、トムの間抜けな部分も見せたとい
うことでしょうか?

再び、ギャツビーに戻りますが。ギャツビ
ーがデイジーに向ける限りなく優しい眼差
しとウルフシェイムとその配下に対する陰
を伴った険しい眼差しが対照的で、そんな
陰のあるギャツビーの役が月城さんによく
似合っていました。

ただ、密造酒のもぐり酒場での提供はしま
すが、ギャツビーは、ウルフシェイムが勧
める麻薬の売買には手を染めない、という
彼なりの正義は守ろとします。
そのあたりもギャツビーに対する好感度を
高めていると思います。

一方のデイジーは、裕福な家庭に生まれ、
天真爛漫な女性に育ちます。そんなデイジ
ーの前に現れたのが、軍隊で中尉のギャツ
ビー。二人は一目会った時に恋に落ちてし
まいます。二人が森の中で子供時代に見た
自分が王女と王子になる夢について語り合
う場面は、微笑ましくもあります。

しかし、二人のそんな関係に気づいたデイ
ジーの母親エリザベスは、ギャツビーの経
歴を調べ上げ、身分差を理由に二人の仲を
引き裂いてしまいます。

そんな時代だった、という感想も見かけま
したが、今でも、格差婚というのは、なか
なか難しいのではないでしょうか。

泣き崩れるデイジーは、何も知らないただ
の馬鹿な女の子になって生きていこうと決
心します。

ここで、デイジーが歌う「女の子はバカな
方がいい」にみんな共感するようですが、
ちょっとピンとこないのは、私が男だから
でしょうか?
原作では、この話はニックとデイジーの会
話の中に出てきます。
デイジーが出産の時に、看護婦に生まれた
子は男の子か女の子かと尋ねます。そして
女の子だと分かってこういうのです。
「女の子で嬉しいわ。馬鹿な女の子に育っ
てくれるといいんだけど。それが何より。
きれいで、頭の弱い娘になることが」
原作では、自分の娘が「馬鹿な女の子」に
育つことを望むのですが、宝塚版では娘だ
けでなく、自分自身も「馬鹿な女の子」に
なろうとします。
その辺が、どうも、ちぐはぐに思えてしま
います。

で、話が飛びますが、ギャツビーの葬儀に
現れたデイジーは、1本の白いバラを墓穴
に投げ入れるのですが、前回の、宝塚大劇
場の千秋楽のライブ中継では、デイジーが
バラの花を投げ捨てるように見えたのです
が、今回は、普通に投げ入れているように
見えました。
もし、演出を変えたのならば、こちらの方
が正解だと思います。まだ、デイジーは、
ギャツビーのことを愛しているということ
になるので……。

それは、最後にギャツビーとデイジーが言
葉を交わした銀橋の場面で、デイジーはギ
ャツビーに「信じてもらえないかも知れな
いけど、私はまだ、あなたの事が好きよ」
(ちょっと違っているかもしれません)と
言った言葉と一致することになるからです。

また、話が違いますが、ギャツビーが対岸
に見つめている緑色の光は、灯台の灯と書
いているかたがみえましたが、ブキャナン
邸には、モーターボート用の桟橋があって、
その先端に緑色の灯火が付けられています。
ギャツビーはその緑色の灯火を眺めている
のです。
映画版では、その緑色の灯火が象徴的な意
味を持って(つまり、デイジーのいる場所
を示す)、かなりはっきりと出てくるので
すが、宝塚版ではぼんやりしていて、ちょ
っと分かりづらいかな、と思いました。
最後に、ギャツビーがデイジーに何かあっ
たら屋敷の明かりを全部つけて。モーター
ボートで駆けつけるから。
と言うのは、両方の邸にモーターボート用
の桟橋があるからです。

また、最後のジョージ・ウィルソンがギャ
ツビーを拳銃で撃つ場面で、ウィルソンが
ギャツビーは犯人ではないと知っていて、
撃ったと書いている方もみえましたが、そ
れも違うと思います。
ウィルソンは、眼科医の看板を「神の眼」
と信じ込んでしまっていて、「神の眼は誤
魔化せない」と歌います。
つまり、ウィルソンは、神に代わって裁き
を下すのですから、間違った者を撃つはず
がありません。だからこそ、ギャツビーに
対して、2回も同じことを確認したのです。
しかし、ギャツビーはデイジーを護るため
に、神の眼に背いてでも嘘をつかざるを得
ず、ウィルソンに撃たれて死んでしまいま
す。

デイジー一人を一途に愛し、デイジーの愛
を再び取り戻すために裏の稼業にまで手を
染め、大邸宅を建てるまでに財を貯めたギ
ャツビー。それが、一瞬にして崩壊し、デ
イジーを護るために死んでいく。

このような一人の男が見果てぬ夢を追い続
けるような話は、もう、今の若い女性には
受け入れられなくなっているのでしょうか?
それは、少し寂しいような気もしますが……。

すみません、少し、とりとめのない話にな
ってしまいました。
今度、再演するときには、また、大きくス
トーリーが変わっているのかもしれません。

時代が変わってしまいましたから、このよ

うな物語は受け入れにくくなっていくよう
な気もします。

ところで、白いバラの花の花言葉は、「心
からの尊敬、無邪気、純潔、相思相愛、約
束を守る、私はあなたにふさわしい、あな
たの色に染まる」だそうです。
これを意識して敢えて白いバラにしたのか
どうか。どうでしょうね?